
15 6月 「宇陀(うだ)の漆部(ぬりべ)の里」 松岡太和
松岡太和のメッセージ
「漆文化」会報5 日本文化財漆協会 昭和50年5月1日
12世紀ごろにできたわが国最初の国語辞典 伊呂波字類抄の巻五宇の部、漆のところに「本朝事始」という書物に書かれていた倭武皇子が漆を発見した伝説を紹介してある。これは日本漆工史の初めによく聞かされるものであるが、実際にはこれより遥かに古代から土器の発掘などによると漆の利用がされていた。日本武尊が大和国宇陀の阿貴山に遊猟されたとき、山野を散歩されて斜面を登る際に手で木の枝を引き抜き折られ、その木汁も観察されたのであろう。舎人(とねり)(家来・召使の意)の床(とこ)石(ばの)宿(すく)尼(ね)をお呼びになって、その木汁を採って千(たて)を塗って献じたところ大変お喜びになった。次に御身の廻りの工芸品を塗られ、床石宿尼を朝廷の漆部の官に任命された。
この宇陀は私の故郷である。阿貴山の近くで成長したが、神武天皇の大和攻略の伝説でも有名な所で、古代だから大和朝廷の狩場があって禁(しめ)野(の)として一般人の狩猟は禁じられた場所が多かったらしい。それが漆部の里と呼ばれるように、漆はいたる所に野生していた。しかし、調(貢ぎもの)として民家に植樹栽培させて、漆部(うるしべ)をおき朝廷の御用工房を所々に置かれるようになったので、宇陀から吉野へかけては良質の漆が採集された。阿貴山に近く今も嬉(うれし)河原(かわら)という地名の残っているところがあるが、これは漆河原が音便で変化した呼び名となった漆山だっただろうと思われている。この漆部の里も明治になってはついに漆の姿も見当たらぬほど山野は一変して、漆器は遠く輪島から行商人が往来するようになってしまった。山裾や河原に残った数本も美しい紅葉を誇っているうちにカブレるので伐られてしまう運命であった。
昭和の中頃東京で私が彩漆画の顔料発見に傾倒していた頃、故郷の実弟が漆の殖樹を考えて希望して来たので手元にあった漆掻き用の道具などを送ってやり、漆苗木の入手を調査して知らせてやった。ちょうど自宅の山裾などに数本の漆が残っていたが、阿貴山から近いあたりに薪炭用の櫟(くぬぎ)の雑木山があって、付近に桐の栽培畑等もあり低地は山田の水田だから櫟を伐ったあとを漆山にする考えで3千本程の漆苗を会津から買い求めて植えつけたようだった。杉、檜(ひのき)、栗などは植林の経験があったが、漆はもちろん初めてである。これがそのまま成長してくれていれば、私の彩漆画の漆などは何の心配もなく日本産最上のものが自由に入手できたものを。地形と土質の研究が不足だったと思う。その後、年と共に枯れ消えてついに檜山に変える運命となった。
前記の漆河原だった宇陀高原に越えて来る半坂峠の宇陀側にあたる大斜面で、今はゆるやかなスロープになった段々水田であるが、山腹の斜面から湧き出す水が豊富でいかなる旱魃(かんばつ)の年でも水田の水に困ったことは無いという有名な土地柄である。この村からさらに奥宇陀の伊勢に近い曾爾村は、現在紅葉の名所として香落渓(こうちだに)で有名になったが、奇岩絶峯の下を流れる曾爾川に漆部(ぬりべ)橋と呼ばれる橋が残っている。9世紀の初めごろ大和薬師寺の僧景戒の著書「日本霊異記」の中にある女仙人の話は、ここの漆部造暦(みやつこまろ)の妾が貧しい生活を意に介せず衣類から食事まで天人の様な暮らしをし、孝徳天皇のときについに曻天するということである。この造磨の城跡と称する漆部塚がこの漆部橋から少し入った山の中の広場にある。この辺の山裾には今も所々に漆樹が野生で残っていて、村人の器用な者は自家の建具や家具を生漆で塗っているのを見かけたものである。漆部の里の名残のように。