伯父「太和」の思い出

松 岡 康 毅

 

By Koki Matsuoka

今から約35年程前、古い藁葺きだった自宅の改造を試みた。藁打ち石のそばの大黒柱を取り外した際、柄穴から墨書された「文化四年丑年」の文字が現れた。

 

「文化四年」は西暦1808年である。江戸時代末期、当時の棟梁が自分の建てた家の柱の柄穴に建築年度を記したのであろう。太和はこの家に生まれている。

 

残された家は、経済的に豊かな人の家とはいえず、質素な農家の造りである。小地主であった太和の父にとって、息子2人を東京の大学に進学させ、太和の画業を支えることは大きな負担であり、自宅を飾る余裕がなかったことが伺われる。

 

祖父、実父と村長をつとめた家を継いだ私も、住居を立派にできない家風をうけ継いで今に至っている。

 

1959年春、大学に入学して東京に住むことになった私は、休日によく伯父の家を訪れた。力仕事の手伝いと伯母の手料理での栄養補給が目的である。

三越で開催される日本漆塗会の展覧会に、伯父の作品を運び込む仕事をよく手伝った。

 

世田谷にあった伯父の家は、半分以上の広さがアトリエで、そのアトリエは、絵を描くスペースというより、化学の実験室のようでもあった。彩漆を作る作業場でもあったからだろう。

 

60歳を過ぎた伯父夫婦の家は静かである。
伯父は、アトリエにこもる以外は掘炬燵の中に足を入れ、柱に背をもたれさせ静かに画稿を練ることが多かった。

 

こんな所に私が訪れると、自分の弟によく似た私の顔を見て昔を懐かしがるのか、浅草で買ってきた塩豆を肴に、コップ一杯の日本酒を楽しみながらよくしゃべった。

 

県庁知事室ロビーの竜田川の紅葉を描いた作品や、大和の風景を描いた作品は私の在京中の作品である。

私が弁護士になってから、伯父の家を訪れた折り、伯母は「最近あまり描かないのよ」と淋しそうにつぶやいた。

校庭を畑にして、甘藷を作って飢えをしのぎ戦中戦後を生き抜いた伯父の身体は、年を取るにつれ老人性結核によりむしばまれていたのである。

 

1978 年、教え子の病院で伯父は静かに逝った。

 

残された作品は、伯母の熱い思いに支えられ、散逸することなく残された。そして全ての作品が宇陀市に寄贈され「太和美術館」の創設を持ちながら眠っている。

 

宇陀市の住民である私は,年を経るにつれ美しさを増すという伯父の絵の真価を確かめ、これを伝承するためにささやかながら力をつくしたい。

 

2006 / 11月