松岡正雄画伯は、1894年(明治27年)3月に、『日本書紀』に大和朝廷の漆部の里であったと記される奈良県宇陀郡伊那佐村(現在、宇陀市榛原区)でお生まれになり、東京美術学校に入学するまでの幼少年期を過ごされました。この地は、昭和の大合併により榛原町となり、続く平成の大合併により宇陀市として2006年1月1日に新たなスタートを切り、悠久の歴史と豊かな自然に恵まれた夢ある町として発展を続けています。
画伯は、東京美術学校師範科在学中から二科賞を受けられるなど、若くして洋画壇に躍り出られ、二科展や帝展で活躍されました。特に優れたデッサン力は、「デッサンの松岡」「デッサンの名手」として広くその名が知られました。
このように洋画家として将来を嘱望される中、早くから関心の深かった漆絵の研究に没頭、生涯の内50年近くを彩漆画に費やし、彩漆画の先駆者として努力されました。彩漆画が確立されたことからもうかがえるように、その功績は非常に高く、松岡正雄画伯以前では考えられなかった色を漆で表現されています。
そもそも漆の歴史は非常に古く、今から9千年も前に遡るとお聞きしています。当時の漆の用途は、装飾品や日常の陶器に彩漆で絵や模様を描き日常の道具を美化するもので、この用途は現在も「輪島の漆塗り」などで使われています。このように、画伯以前の作品は、絵画というよりむしろ、工芸品と呼ぶに相応しいものでありました。漆を用いて絵画を描けない理由の一つに色漆の種類が5~6色程度に限られていたためで、画伯自身も様々な色漆を作るのに大変な努力をされています。
このように、画伯は、過去に誰も踏み入れていない彩漆画を確立され、数多くの作品を残されました。
画伯の遺作の大部分が故郷の旧榛原町(現在、宇陀市榛原区)に寄贈されたのは、1978年(昭和53年)2月に享年84歳で永眠されてから15年後の1993年(平成5年)のことです。この年は、町制施行100周年に当たり、「高原文化のまち」を標榜し文化の町づくりを進めていた旧榛原町として、松岡アヤ夫人と教え子の方々による松岡正雄顕彰会のご厚意による寄贈の申し入れに対し、深く感謝し町制施行100周年の記念として受納させていただきました。くしくも画伯生誕から約100年の時を経て、偉大なる画業と共に名作の数々が故郷へ帰ってきたのであり
、宇陀市出身の偉大なる日本の画家として、師の功績を後世に伝え顕彰していくことが、私どもの努めであると考えております。
最後になりましたが、この美術館を訪れる方々に、故松岡正雄画伯の世界を十分に堪能いただきますよう、心よりお待ちしております。
2006年 11月
宇陀市長 前 田 禎 郎