松岡太和(雅号で本名は松岡正雄)は、奈良県宇陀郡伊那佐村(現・奈良県宇陀市榛原区比布)に1894(明治27)年に生まれました。宇陀市は大和高原とよばれる高原地帯に位置し、古事記や日本書紀の時代から歴史の舞台となった所です。現在も旧城下町や宿場町の雰囲気を伝え、歴史街道の街並みなど数多くの文化資源と豊かな自然に恵まれています。また榛原は古代漆部の里であったことも、松岡太和と漆絵の深い縁を感じます。
この地で奈良師範学校を経て上京し、東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科に進学します。在学中に二科展に出展、二科賞を受賞。それに飽きたらず、今度は彫刻科に入るとともに漆工科を聴講し、漆師について漆工技術を学びます。油絵画家として評価されながらも、漆絵という新しい分野を切り開く挑戦と開拓の道を選びました。それは「日本のように湿気の多い風土では油にカビが生じやすく、防御することは極めて困難。油絵は長くても百年以内には作品の生命を亡ぼすことは明らかだ」と考えてのこと。そしてついに「油絵は画家の終生の仕事ではないことを痛感した」と語ります。
日本人と漆の歴史は長く、9千年とも言われています。漆絵として日本最古のものは法隆寺に伝来する「玉虫(たまむしの)厨子(ずし)」(650年頃)。1300年以上前に描かれた漆絵が現存しているのをみれば、その強靭性は明らかです。松岡は「漆絵は200年でも300年でも変わることなくその姿を留める」と絵を習いにきた子どもたちに自慢するように聞かせていたようです。漆の堅牢さだけに魅力を感じたわけではなく、漆の香りや渋味のある色調の両方に惹かれ、日を追うごとに漆を愛する気持ちは熱くなっていきます。
松岡の目指した漆絵は、日本の伝統的な美術の技法を取り入れ、欧米の美術と融和を図ること。美術工芸品としての漆絵ではなく、絵画としての漆絵を確立し、一つのジャンルとして確立することにありました。作品は油絵として表現できるものや、日本画として表現することもできますが、「私は愛する漆絵だからこそ、自分の心を語りやすい」と独自の画境を創り上げました。「写生している絵画は油絵が多く、油絵を漆絵の下絵に使用している。心中にうずめてこれを表現するためである。日本の装飾画派の伝統は強く私を支配しているが、だからこそ新しい漆絵の上にこれを生かしていかなければならない」。まだ誰も歩んだことのない道ゆえに、研究と精進の日々でした。
松岡の彩漆画を見ると、鮮やかな色彩が印象に残ります。白や赤、青など漆ではお目にかかることのできない、鮮やかな彩(いろ)漆(うるし)を多彩に起用しています。当時、漆の色は5~6種類程度に限られていて、白や青といった色を出すのは難しいといわれていました。漆の透明度や顔料の研究、特に白色顔料の研究は苦心しています。松岡がとても大切にしていた『飾り馬』は1937年(昭和12)の作品ですが、白馬の白がとても美しく描かれています。第1回漆絵展に出品し、漆を知る人たちはその鮮やかな色に驚嘆の声を上げたことでしょう。「彩漆蒔絵や研ぎ出しの技法を使い、漆工芸の技術の高さを証明する力作である」と高く評価されています。「現在も私の彩漆画のように自由に彩漆を駆使できる作家はいないと自負している(1973年・昭和48)」。松岡の意欲と情熱、さらには強固な意志によって、新しい実が結ばれたのです。
半世紀以上もかけて自力で道を開拓してきた松岡の真摯な姿勢。その姿勢について書かれものがあります。『受け継がれる日本の美─漆の文化』(室瀬和美著)という本の中に、松田権六は技術者が一人前になるための心構えは、大きく分けて三段階あるといっています。「第一は、人から教えを受ける勉強方法。答えは早いし一番苦労が少ないが、師匠以上になるのは難しい。第二は、物から教わる方法で自らの五感を働かせて勉強するというもの。自分の努力しだいで正しく優品そのものから直接的に真価を正しく把握することができる。この方法は視野を広め、伝統を把握し、自らの自覚を促す高度な勉強方法である。第三は、自分で研究工夫をし、自力で道を開拓し、努力しながら真理の奥底の領域に達する方法である。これこそが専門家としての完成の道で 、一生かけて成し遂げるべきものであると説いている」 松岡の創作の姿勢は、茨の道であったかもしれないけれど、専門家として王道を歩んでいたのです。
松岡太和の画業は、前期の油絵時代と、後期の彩漆画時代の二期に分けられます。さらに彩漆画時代は、戦前の日本漆絵協会創立を中心とした研究時代、戦後の抽象作品や日本漆絵作家協会(日本漆画会)を中心とした創作時代、晩年の故郷奈良の風景をテーマとした「大和の風景」連作時代の三期に分けられます。いずれの時代区分も、その分かれ目にはっきりしたものではなく、重なりあっています。そして、松岡の画業を一貫するのは、天性の並はずれたデッサン(素描)力です。戦前の旧制中学校や女学校の美術の教科書に、松岡が写実的な細密描写で描いた鉛筆素描が掲載され、「デッサンの松岡」「デッサンの名手」としてその名が知られていました。そのことからも、確かな力量がわかります。
雅号の「太和(たいわ)」は、“すべてが和らぎあい調和を保っていること”を意味します。その名のとおり、松岡の作品にはデッサン力や技術、制作の熱情などが調和した、独自の世界が存在します。しかし、松岡はこうもいっています。「材料を得ることが難しいとか技法の難しさは、ささいなことだ。漆絵は珍しいから尊いのではなく、強いためだけにこれが勝るとも考えない。ただ作品の気品だけがその品位を定める」。こうした松岡の人となりが、作品の一つひとつに反映されています。