
15 6月 「彩漆画の誕生」
松岡太和のメッセージ
画集からの抜粋 (『松岡太和』(昭和48年8月発行)より再録)
漆絵、漆画と一線を画し、
あえて彩漆画と呼ぶ。
透明な飴色の木地(きじ)蝋(ろう)漆(うるし)で顔料の粉末を練って色の漆を作る。油絵具のように市販されていないから自分で必要な分量だけ定盤の上で錬篦(ねりべら)で手錬りにする。これが彩(いろ)漆(うるし)である。これを使って、油絵を描くのと同じように、または日本画を描くように、自分で作った漆のパネルかキャンバスの上に描いた絵が漆絵であり、漆画であり、彩漆画である。
近ごろ漆を使わずに代用漆の合成樹脂で描いたものまで漆絵、漆画と呼び出したので、区別して少し重みをつけ、本格的に彩(さい)漆画(しつが)と書くことにした。しかし、大切なことはほんとうに漆で描いた絵であっても、それだけでは絵の価値には関係のないことである。
そして、この簡単な説明通り実行できる境地に到達するためには、わが生涯の50年がかかっているのである。
漆は 4千年も前から使われていた。
漆絵は、蒔絵より簡単に工芸品に描けるので、徳川時代から民芸品として模様風に日常の道具を美化してきたところがある。蒔絵の無かった中国では、古代から日常の器に漆絵で絵や模様を描いていたのが古墳の発掘品から有名になって、今、世界を驚かせている。大正5年ごろには、洛陽の金村、湖南の長沙馬王推古墳のものなど、日本の法隆寺玉虫厨子の漆絵よりも、まだ、千年も昔の漆の作品である。
これらの過去の作品を見てもわかるように、使っている色漆の数は非常に少ない。漢民族建国の、今から4千年も前に、黒と朱漆が使われたことが伝えられているが、近年発掘される中国出土の漆器の上にも、黒、朱、黄、緑、ぐらいが見られる。玉虫厨子になっても色数はそんなに変わらないし、近代になっても漆の色は6~7色程度に限られていた。現在も私の彩漆画のように自由に彩漆を駆使できる作家はいないと自負している。
漆は油や膠(にかわ)と異なってほとんどの顔料は彩漆にならない。すなわち、漆で練ると乾燥のときに黒変して発色しないのである。このために、東洋では漆の驚異的な強靱性と耐久性が、工芸、工業の世界に塗料として王者の地位をしめ、至宝とされてきたのだが、美術的な絵画の領域にはついに活用しなかったのである。
日本画のごとく、絵画のごとく、
漆を絵画の世界へ誘い出したい。
私が大正の始め上京して、上野の美術学校(現・東京芸術大学)で油絵の勉強に昼夜ひたむきに努力をしていたころ、朝鮮楽浪古墳の発掘品中の漢時代漆器の素晴らしさが追々発表された。東京大学考古学研究室にもその一部が移されてきたのを、原田教授の好意で見せていただいた。素地の木質は変質歪曲しているが、これが2千年もの間、泥土に埋まって古墳の底に眠っていたとは思えない漆の皮膜の神秘な姿に圧倒されてしまった。単純な構図で簡単だが達筆に絵も描かれていた。東洋のこの霊液はこのときから私の心を強く捕らえ、現代日本の漆芸界を批判し始めた。すでに、当時彩漆用顔料としては各色の漆用レーキ(顔料の一種)ができて使用されていたが、その色彩の耐久力は染料に等しく数年にして退色変色が当然であった。これでは絵画の絵具ではない。漆には発色可能な鉱物性の不変色顔料を親和させて、耐久性の強い彩漆を作り、日本画の如く油絵のごとく絵画の世界へ誘い出して、東洋4千年の眠りから目覚めさせねばならぬと強く心に誓った。美校師範科卒業後、さらに彫刻科に再入学して立体造型の研究を続け、かたわら大震災の年まで5年間、同校の漆工科に通って漆工製作法、漆工史、工芸化学の学科を聴講した。塗漆の実技は、自宅の近所の塗師の工房にはいって実習したが、本格的な工程技術は理論の聴講を必要としたのである。
一方、油絵の研究はこの彫刻科在学中、帝展洋画の中堅青年作家とともに、新光洋画会を結成して、大正9年から20名の会員で毎年、展覧会を開催していたので、漆絵と油絵の比較から、日本の風土と油絵というものの素材と古画の耐久性の状態についての反省研究が深められ、島国の温暖多湿な気候は、専門的な保存技術なしには、30~40年の短い年月でカビが絵具層を画面からはがれ壊滅させてしまうことを知った。コンクリート建築の湿気とアルカリの発散は、油絵の保存には大敵であることも明白になった。
昭和10年に漆絵の独立宣言を発表。
これからも彩漆画の研究は続く。
新光洋画会が大震災後、解散し、昭和の初めごろから硝子の岩田藤七君に誘われて、岡田三郎助先生が会長の春台美術工芸部会員として入会、漆工芸鉄七宝の作品を発表しながら絵の描ける彩漆を作ることに努力は集注された。過去に文献は何もない茨の道であったが、昭和7年初めて漆絵3点を展覧会に発表、昭和9年秋11月になって8号-10号の小品17点ほどができたので、東京駅前の日本工業倶楽部を会場に第1回の漆絵個展を開くことができた。作品は売らず、日本の漆の新研究作品として批判を世に問うことにし、各新聞も美術雑誌も親切に批評を掲載、漆工芸家や、趣味家は地方からも上京されて、日本最初の近代的漆絵として反響は大きかった。
ここにまず、本格的な彩漆画の第一歩をふみ出し、10年の新年号アトリエ誌に漆絵の独立宣言を発表した。
その後は、略歴のように彩漆画の存在も世間的に認められてきたが、これからも新しい研究はつづいて行く。そして、この彩漆を自由に駆使する表現技術によって深い内包性を暗示する良い作品を生むことである。
戦争敗北のショックは私の絵にもある期間変化を見せたが、これはそれなりに見どころもある。50年のまとまった記憶はまだ残していないし作品もまことに少なくて恥ずかしい。しかし、私のやったことだから、今後私以上のことを独自に出来る人が必ず出現すると信じる。芸術は科学技術ではない。